2012 Ironman US Championship in New York
2012年8月11日 土曜日 天候:くもり
種目:Swim 3.8Km、Bike 180Km、Run 42.2Km
記録:13時間51分34秒 総合1434位/2021人、55-59男子39位/76人
| Swim | 50:31 |
T1 | 10:51 | 1:01:21 |
Bike | 6:55:54 | 7:57:16 |
T2 | 13:42 | 8:10:58 |
Run | 5:40:37 | 13:51:34 |
| プロローグ~エピローグ | レースデイ |
■8月11日(土)
レースデイ
またしても数年前の中国の大会と同じ事になってしまった。アイアンマン・チャイナでは、バイクまでは脚に何の不調も無かったが、走り出して暫くした後、走れなくなってしまった。その後は歩き続けてフィニッシュした。
1週間前の日曜日、暑い朝、いつもの様に走りに出掛けた。金井公園まで行って周回を走っているとき、突然左足ふくらはぎに痛みが走った。肉離れだった。その後は最善の対応策を取ったが、レースの前日まで痛みが消えることは無かった。
≪スタート前≫
ホテルの前からトランジッションエリアに向かうフェリーの乗り場まで、大会で準備したバスが朝3時から動き出す。それに乗るために2時半に起きた。朝の準備は前日までに終わっていた。スタートが7時なので、朝食を食べるにはまだ少々早い。朝食は4時頃食べる事にしていた。
朝食はいつも愛用しているアルファ米の赤飯。補給食のおにぎりを作るときに一緒に作っておいた。3時少し前にホテルのロビーに降りていくと、もう既にアスリートはたくさん出て来ていた。まだ行列ができているほどでもなく、ホテルの前からのバスはどんどん出ていた。10分ほどでピア39に到着、既にたくさんの選手が集まっていた。フェリー乗り場の待ち合いはまだ余裕があり、座る場所も空いていた。たまたま同じツアーの女性がいたので、隣に座らせてもらう。フェリーの出発までまだ時間があったので、この間に朝食を食べておいた。
トランジッションエリアに向かうフェリーが4時過ぎに出発した。40分掛かると言われていたが、30分ほどでロスドックという名前のトランジッションエリアに到着した。すぐにバイクのセッティングを始める。朝の荷物にはポンプは入れるなと説明会で言っていた。仕方なくポンプは持って来なかった。昨日のセッティングの時は雨が降っていて気温が上がることもなかったので、タイヤの空気は抜かなかった。タイヤの空気圧を見るとそれほど抜けている様子もなかったので、そのまま行くことにした。あとは、昨日の雨でオイルが落ちてしまったチェーンにオイルを差してバイクのセッティングは終わり。OS-1の入ったボトルをセットし、補給食をバイクにセットして全ての準備は終わった。
スイムスタート地点に向かうフェリーはロスドックから6時10分に出発する事になっていた。それまでまだ1時間以上あった。ちょうど着替えテントが空いていたので、暫くはその中で補給食を取りながら待っていた。ウェットスーツを着込んで、5時45分くらいになってフェリーの乗り場に向かう。もう既にだいぶ人が並んでいた。その後ろにならぶ。私の乗ったフェリーは6時20分頃に出発した。その後もまだフェリーは続いていた。3.8キロ先のスイムスタート地点まではフェリーで20分くらい掛かった。
≪スイム≫
6時50分、プロの男子がスタートした様だった。それに続いて、5分後、プロの女子と思える集団がスタートして行った。私はそれをフェリーの中から見送った。その後は、既に桟橋に着いていた選手が次々に出ていった。結局、桟橋の近くで停止していた私達のフェリーが、桟橋に着いてスタートできる様になるまでには、10分以上が経っていた。プロはフローティングスタートだったが、エイジグルーパーのスタートは、桟橋から次々に飛び込んで出て行った。こんなスタートを見るのは初めてだった。当然時差スタートになっていた。私がスタートするとき、時計は7時14分頃を指していた。桟橋から飛び込んで泳ぎ始める。暫くして、ストップウォッチをスタートさせていないのに気が付いた。時計はスイムを上がってからスタートさせればいいと思った。
ハドソン川の水はどうかと思ったが、やはりきれいではなかった。自分の伸ばした手の指先は見えなかった。その代わり波はない。更に、川なので流れがある。昨日バイクをセッティングし終わったときは、河口から上流に向かって流れがあったが、今朝は河口に向かって川は流れていた。
バラバラと飛び込むウェーブスタート形式なので、混雑は無かった。川岸から100m位のところに、100m間隔くらいで、ゴール地点に向かってまっすぐブイが設置されていた。川の右側を河口方面に向かって泳いで行く。右オープンの私は、右側に逸れていくのを避けるために、ブイを左に見ながらそのそばを泳いだ。普通ならブイの近くは混雑するのだが、ウェーブスタートなのでそれは無い。気持ち良く安心して泳げた。
スイムの遅い選手も前を泳いでいるので、時折前に選手が現れる。水が汚く殆ど視界がきかないので、突然に現れてきて驚く。仕方なく前の選手を避ける。流れに沿って泳いでいるので、後ろから押されている様な感覚があった。気持ち良くスイスイ進んだ。こんな感覚は初めてだった。常に腕を回し続けて、休む事も殆ど無かった。本当に気持ちの良いスイムだった。
スイムの目標物は、ニュージャージーとマンハッタンを結ぶジョージワシントンブリッジの橋脚。かなりの高さなので、スタート地点からもよく見えた。その橋脚が次第に大きくなり、ゴールが近いことが分かった。ゴール地点のロスドックのトランジッションエリアも見えてきた。いつものスイムとは全く違う感覚でゴールを迎えた。
ゴール地点にはスロープが設置されていた。周りの選手が立ち上がっているのが見えて、もう水深も浅いことが分かった。しかし私はいつもの様に、なるべく近くまで泳ごうと思っていた。スロープを前方に確認しながら、顔を水中に入れると周りが何も見えなくなった。真っ暗だった。何事かと思ったが、選手が歩いて底の泥が舞い上がり、水は真っ黒になっていた。水中に顔をつけると何も見えなかった。仕方なく、最後は平泳ぎでゴールのスロープにたどり着いた。ボランティアの助けを借りながらスロープを上る。水から上がったところで時計を見ると、8時3分だった。私がスタートしたのが7時14分頃だったので、スイムタイムは50分を切っていた。ここまで速いとは思わなかった。しかし速い事に越した事はない。気を良くしてバイクのトランジッションに向かった。
その時、やはり肉離れを起こした左ふくらはぎには痛みがあった。走ることもできず、ゆっくりとトランジッションエリアに向かった。ボランティアにレースナンバーを伝え、トランジッションバッグを持って来て貰う。着替えテントに向かうと、みんな外で着替えている。こういう事が許されるのかと思ったが、私はテントの中に入り、イスに座りゆっくりと着替えをした。スイムから上がったところでストップウォッチをスタートさせて、バイクを持って走り出した時には10分くらい経っていた。のんびりとしたトランジッションだった。
≪バイク≫
バイクラックを出ても乗車エリアまではまだ暫く走らされた。ゆっくりとバイクを進めた。バイクスタート地点からは、市街地まで50mくらい上らなければならない。ゆるい坂を上らせて貰えるかと淡い期待を持っていたが、そんな事は無かった。まっすぐに上の道まで上らされた。ここもゆっくり行くしかなかった。市街地に出てやっと普通の応援があった。これからどんなコースを走るのか楽しみだった。バイクの練習は十分なロングライドができていなかったので、最後まで走りきれるくらいのペースで走る事にしていた。時速30キロくらいでコンスタントに走れれば良かった。目標は6時間半だった。
暫く街中を走って向かった先のバイクコースは、ハイウェイだった。本来は南に向かう上り2車線を閉鎖して、バイクコースにしていた。その右隣では、北に向かう下り車線を車がビュンビュンと走っていた。コース自体はずっと自動車専用道の単調なコースだった。しかも往路は、本来の車の走行方向とは逆向きに走っているので、所々に大きな穴が開いているなどしていて、路面状態は良くなかった。
下見などは全く無く、どんなコースをどこまで走るのか、全く分からない。ただ、90キロのコースを2周回、45キロの往復なので、45キロ地点まで走れば折り返しという事は分かっていた。車専用の道路なので、バイクで走るにはなかなか楽ではない。道路は平坦なところは無く、常に上っているか下っているかのどちらかだった。しかもその距離が長い。延々と緩やかな坂が続いていた。
最初の折り返しは45キロを少し過ぎたところか、警察の車が横に止められ、その前に折り返し点があった。ただ単に距離を測って決められた様なところだった。ハイウェイなので周囲に住居などは無い。殆どが森になっていた。1周目は曇っていたので暑さはあまり感じなかったが、2周目になると日差しも出て来て、日をさえぎる物もなく、暑くなってきた。応援の人も殆どいない。たまにあるインターチェンジに、友人の応援と思える人たちが集まり、声援を送ってくれていた。
同じコースを帰ってきて、折り返しは90キロ地点。遠くに高いビルなども見えてきて、橋の橋脚が見えたところで折り返しになった。半分を終わった折り返しで、時計を見ると、3時間15分ほど。ほぼ予定通りに走れていると思った。これならば、ランで7時間掛かっても問題なくフィニッシュできると思った。
最初に用意したおにぎりは食べ終わっていた。フラスクに入れたジェルが少々余っていた。固形食料もほぼ食べ切っていた。バイクにくくり付けていた羊羹も1個食べていた。補給状態は何の問題も無かった。折り返しの少し前にスペシャルニーズの補給地点。小用を足し、半分に分けておいた補給食の補充も行った。
今回のレースは、アメリカ東海岸。日本からの時差は13時間あった。アメリカではサマータイムが採用されているので、通常は14時間の時差がある。成田からの飛行時間は12時間ほど。以前に北米でのレースはカナダの大会に出た事があったが、それは大陸の西側だった。今回は時差の調整があまりうまくできなかった。ランニングなどをしてうまく調整できれば良かったのだろうが、走ることもままならなかった。用の無いときは、なるべく部屋でじっとして、脚に負担を掛けない様にしていた。
そういう事もあってか、走行しているうちに次第に眠気が襲ってきた。以前にもレース中の眠気は良くあることだった。我慢して走っていれば、そのうちに解消していくものだった。上りはしっかりと漕がないと走らないので、眠気は感じないのだが、下りがいけなかった。黙っていても進むので、眠くなってくる。危ないとは思っていても、眠気は解消しなかった。事故だけはイヤだった。幸いにも、事故もなく最後まで走り切れた。しかしあの路面状態からすれば、どこで穴にはまり落車しても不思議ではなかった。今から思えば、運が良かったのかもしれない。
そろそろ2周目の折り返しが近付いて来る頃、タイムはどれくらいだろうかと思って時計を見ると、表示が消えている。やはり、時計のバッテリーはもたなかった。表示がやや薄くなってきていたのでそろそろ電池の切れる時期かと思っていたのだが、肝心のレース中に切れてしまった。こんな事も数あるレース中にはたまにある。運が悪かったと思って諦めるしかない。
コースは2周目も全く同じ。何の変化もない。最後の目標はジョージワシントンブリッジの橋脚。スイムと同じ様に、あの橋脚を目標に走るだけ。遠くにビル群が見え、そして次に橋脚が見えてくる。1周目でスペシャルニーズバッグを貰ったガソリンスタンドは、既にきれいに片付けられていた。ガソリンスタンドの先、折り返した地点を直進して再び街の中に戻って行く。トランジッションエリアに向かう下り坂には、逆方向に坂を上ってくる上位のランナーがいた。こんなところを走らされるのかと、少々嫌気が差した。どの時点でここを走るのかは、この時は分かっていなかった。この坂は、2周回して15マイルを走り切り、その後ニューヨーク州側に行くために、ジョージワシントンブリッジを目指す上り坂だった。私がこの坂を上るのは、3時間以上後だった。
急な坂にバイクを走らせ、トランジッションエリアまで下っていく。みんな焦ることなく、ゆっくりと下って行く。安全運転だった。バイクの降車ラインでバイクから降りる。シューズのストラップは緩めていたが、バイクは明日にならないと帰って来ないので、シューズは履いて降りることにした。
≪ラン≫
バイクを降りて歩き出す。バイクのときには何の影響も無かった左脚は、ランではどうかと思ったが、やはり痛みはあった。走る事ができない。ゆっくりと歩いてバイクをボランティアに渡す。そしてその先、ランのトランジッションバッグを取りに向かう。もはやランでは焦っても仕方なかった。ゆっくりとランへの着替えをする事にした。
トランジッションバッグのエリアに時計が設置されていて、8時間20分を示していた。たぶんプロがスタートしてからの時間だろう。プロは私より25分くらい早くスタートしているので、この時の私のタイムはおよそ8時間という事になるのだろう。トータルでは予定通りだが、スイムが30分くらい早かった事を考えると、バイクは30分遅かった事になる。しかしこれも予定通りか。
脚にはテーピングをするしかなかった。ランのトランジッションバッグにはニューハレテープを入れておいた。タオルできれいに汗を拭いて、左脚にテーピングをする。少しは痛みを解消してくれる様に願った。
トランジッションにはかなりの時間が掛かった様だった。しかしそれも、この先最後まで走るためには必要な事だった。着替えテントを出て、ランのスタート地点へ向かう。多少の痛みはあるものの、何とか走る事はできそうだった。ランの目標は7時間、ゴールタイムは15時間になった。満足に走る事は無理かもしれないと思った。制限タイムの17時間以内にフィニッシュラインに入れば良かった。
ランのコースはきついと聞いていた。しかし実際に見ていないので、どんなものか何も分からなかった。バイクで下って来るときに、みんなが歩いていたのが見えた。スタート直後からいきなりの上りだった。それくらいきついコースだった。私も他の選手と同じ様に歩くしかなかった。しかし、みんなと一緒というのはなんと楽な事かと思った。今回のコースでは歩くのが何の不思議もないコースだった。また、今の私の脚の状態では、上りを走る事は無理だった。
バイクの降車地点を通り過ぎて走り出す。まだ平らなのでゆっくりだが走って行ける。しかしスピードを上げて走ろうなどという事は考えなかった。みんなと同じで良かった。バイクが下ってくる坂に差し掛かる。周りはみんな歩き出す。自然と私も一緒になって歩く。なんと気持ちのいい事かと思った。いつもなら必死でスピードを上げて走っているだろうに、今回は前を追い掛けるなどという事は考えなくて良かった。みんなと一緒にいれば良かった。バイクで上り、下って来た坂を、今度は歩いて上り始めた。坂の半分くらいまで上って右折、ランコースに入って行く。この中を2周回、15マイル走る事になっていた。右折してからは平坦になり、ゆっくりだが走り出す。やはり周りのランナーも走り出して行く。しかし私はそれには付いて行けない。周りよりペースは遅い。しかしそれでいい。歩くよりは速い。
エイドは1マイル毎。置かれている物も十分である。スポーツドリンク、水、氷、コーラ、ジェル、バナナ、オレンジ、クッキー等々。十分満足できる。欲しい物は全て揃っている。スポーツドリンクはアイアンマンブランドの物、パフォームとか言っていた。しかし飲んでみると全く美味しくない。アメリカ人の味覚はおかしいと思う。これは全く飲めなかった。しかし私には水とコーラがあれば十分だった。
1マイルが過ぎ、最初の下りがある。1マイル表示のそばには8マイル地点の表示があった。2周終わると14マイル=22キロほどになる。しかしまだまだそれは先だった。平坦から下りになって、下り終わるとやや開けた場所があった。ハドソン川の川岸まで下りて来ていた。上った分だけまた下っていた。平坦と下り坂は何とか走れていた。その開けたところにエイド。コーラを補給し水で体を冷やす。その先はまた上りになっている。同じ様な坂を再び上っていく。
走って行く横に赤いシャツを着たスタッフ、メディカルと背中に書いてあった。それならテーピングができるだろうと思って聞いてみる。 "Can you taping?" "Yes" と言ってくれた。テントの中でできると言っている。メディカルのテントに連れて行かれた。
イスに座らされ、テーピングして欲しいと言葉と動作で示す。すぐにテーピング用の包帯を持って来てくれた。さすがにアメリカ、中国とは訳が違う。痛いところを指で示して巻いて貰う。更に他のスタッフも来て、名前を聞かれたり、おしっこはいつ出たかと聞かれたり、いろいろと尋問された。血圧も測っていた。医療体制は万全だった。さすがにアイアンマンを知っている国だった。最後には日本語を話すスタッフまで来てくれた。テープはきっちりと巻いて貰ったので、走ると多少の痛みはあったが、ゆっくりだが安心して走る事ができた。ニューハレテープだけよりは安心感が全く違った。
またいきなりの上り、またゆっくりと歩き出す。平らになったところからまたランが始まる。どんどん後ろから抜かれて行くがそんな事は気にしない。走っていられる事が嬉しい。日本人らしい選手も時折見掛ける。シーポの田中社長もいた。彼とは海外のレースで何度も一緒になっている。エイジも同じなので、互いに顔は覚えている。彼は歩いていた。上り坂だったからだろうと最初は思った。しかしすれ違うたびに彼は歩いていた。私が彼に追い付いたのは、16マイルを過ぎ、ジョージワシントンブリッジを渡っている時だった。
対馬とすれ違ったのは私が最初の折り返しを回って暫くしてからだった。その差は2マイルも無かった。そのうちに追い付かれるだろうと思っていた。彼が私を追い越していったのは2周目に入ってからだった。
平坦と下りを走り、上り坂は歩く。そう決めていた。走る時は足に負担が掛からない様にして走った。エイドでは必要なものを貰い、元気も貰って走り続けた。足りない物は無かった。速いペースではないので、他の部分には何の負荷も掛かっていなかった。常に同じペースで走る続けることができた。
止まってしまった時計は置いてきたので、時間を気にする事は無かった。だから焦りも無かった。最後まで行ける事は確実だった。2周目を終わる頃にもまだまだ日はあった。しかし何時だかは分からない。日没はだいたい8時だった。日没に間に合えば13時間。それならまだ多少は明るいだろう。明るいうちにフィニッシュできることを願った。
2周を終わってやっと、バイクの最後で見た急な上りに取り付くことができた。チェジュのバイクコースの最大の上り坂を思い出した。当然ゆっくりと歩いて行く。人の顔がよく見える。市街に入って一般の人の応援がある。みんな私達を讃えてくれている。いろいろな褒め方がある。 "Good job" "Great job" "Look nice" なんてのもある。走っていて元気が出てくる。そしてやっと橋を通ってマンハッタンに渡ることができる。橋の取り付きは階段。要所要所にボランティアが居てくれて、様子を気遣い、応援してくれる。橋の警備員も応援してくれるひとりである。
橋の真ん中まで来る。下のハドソン川まで何メートルあるだろうか。かなり高い。右側にはマンハッタンの高層ビルが見えている。本当にニューヨークの景色だった。あと残りは10マイルも無い。太陽はまだ沈んでいなかった。シーポの田中さんに挨拶して追い越していく。互いに顔を見合わせる。マンハッタンまで行ってしまえば後はもうアップダウンは無い。フラットな川沿いのコースである。前を目指して走る。
橋から降りる時もやはり階段。ここからニューヨークである。唯一ここがニューヨークの街中を走るところだった。もの凄い数の人が応援してくれている。さすがにアメリカだった。徐々に下って川沿いの公園に入って行く。公園の中は一般のランニングコースになっていて、向かいからは走って来る人もいる。公園にはたくさんの人がいる。土曜日の夜ということで、家族連れがたくさんいた。そんな中を私は走る。残りの距離もどんどん減っていく。公園に入って18マイル、残りは8マイル、キロに換算して残りの距離を考える。残り6マイルになれば、残りは10キロだ。
ずっと公園の中の道が続く。走り易い平坦な道が続いている。川のすぐそばも通る。西側を見ると、そろそろ太陽が沈んでいく。日没には間に合いそうはなかったが、明るいうちにフィニッシュしたい。しかしまだ残りの距離はだいぶあった。キロ表示で1ケタの距離になってくれば、いつもの練習コースに合わせて考えた。8キロならば住電往復、7キロならば柏尾川周回コースの1周分。
公園の中をだいぶ走って、もう公園も端まで来てしまっただろうというあたりで、一旦逆向きに戻された。どこまで戻されるかは分かっていなかった。距離の調整程度に思っていた。しかしその中には、たくさんのランナーが走っていた。もう太陽も沈み掛け、だんだん周りは暗くなっていた。ランナーは対向して帰ってきて、再び折り返していた。いちばん道路に近いところもランナーが走っていた。それが、最後の折り返しを過ぎたランナーだった。その折り返しの中が長かった。1マイルくらいの折り返しを繰り返していた様だ。何度もその中を走らされた。コース地図で4列になっているのを思い出した。それがこの中だった。我慢して走って、最後の列を目指すしかなかった。走っていればいずれはたどり着く場所である。速くはないけれど自分の出せる精一杯のスピードで走っていた。歩いているランナーをどんどんとらえた。気持ちよく走る事ができた。
道路のガードらしきところをくぐって、逆戻りが始まったところから、4回走り終わって戻って来たときは嬉しかった。この先にゴールがあったのだった。ゴールのすぐそばまで走らされて、元へ戻されていたのだった。再びガードをくぐって、先にあるフィニッシュを目指した。しかし、まだまだ明るいフィニッシュゲートは全く見えなかった。フィニッシュゲートを思い浮かべながら走るだけだった。
再び川沿いのコースに出て来た。既にフィニッシュした人の影も見えている。残りは1マイルを切って、もう間もなくと思いながら走る。しかしフィニッシュゲートは遠い、なかなか見えなかった。しかしいずれはゴールにたどり着く。どんなポーズでフィニッシュしようかなどとも考える。ウェアのジッパーはきちんと閉めて乱れの無いようにする。やっと先の方に明るいゲートが見えてきた。フィニッシュする選手を迎えてくれる人たちもたくさんいる。喜びを体で表しながらフィニッシュを迎えた。苦しいけれども充実したレースだった。ランの途中では棄権も考えた事もあったが、フィニッシュして良かった。いいレースだった。
フィニッシュラインの先には対馬さんが待ってくれていた。嬉しかった。対馬さんに付き添われながら、フィニッシュした選手のもてなしをうけた。重いメダルを首に掛けてくれた。努力の結果だった。
フィニッシュ地点からホテルまではシャトルバスが走っていた。空腹をピザなどで満たして暫く休憩した後、そのバスに乗って宿のシェラトン・ニューヨークに戻った。フィニッシュの後はやはりビール。ぬるかったけれどもビールは美味しかった。そしてカップヌードルも美味しかった。その後は、シャワーを浴びたまま、ベッドの上で寝てしまった。
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(No.557)
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