第34回NAHAマラソン
2018年12月2日(日) 曇り時々晴れ
種目:42.195Km
記録:3時間57分23秒(3時間54分58秒)
順位:総合853位/15,067人(60歳代10位)
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0 | Km | 2:25 | 2:25 |
5 | Km | 27:27 | 29:52 |
10 | Km | 26:41 | 56:33 |
15 | Km | 27:29 | 1:24:02 |
20 | Km | 26:50 | 1:50:52 |
25 | Km | 26:18 | 2:17:10 |
30 | Km | 27:37 | 2:44:47 |
35 | Km | 29:18 | 3:14:05 |
40 | Km | 30:24 | 3:44:29 |
42.2 | Km | 12:54 | 3:57:23 |
沖縄、那覇は思った以上に暖かく、しかし湿度はあまり高くないお陰で、期間中は気持ち良く滞在する事ができた。しかしそんな状況の中で開催されたNAHAマラソン、今まででは経験したことの無いサバイバルレースだった。そんなレースで延々と続く沿道の応援と提供される補給食、冷たい水やコーラまで差し出してくれたお陰で最後まで走り切る事ができた。やはり噂どおりのホスピタリティあふれる大会に満足した。
11月30日金曜日の早朝、まだ暗い中を自宅から鶴舞バス停に向かい、羽田行きのバスに乗り込んだ。羽田には6時過ぎに到着、先に着いていた妻や中村さん達と合流し、搭乗の手続きを済ませた。7時40分の那覇行きに乗ると10時半には那覇空港に着いていた。私は今まで経由地として那覇空港に来たことはあるが、市内に出た事は無かった。初めての沖縄本土上陸だった。
着いた当日は中村さんの案内で名護のビール工場や辺野古を訪れ、昼食の後は那覇まで戻ってホテルにチェックインした。その晩は沖縄料理の居酒屋で夕食を取り、遅く到着した川島さんをホテルで迎えた。翌日12月1日には松本さんを迎えに空港へ、そして大会の受付会場へと向かった。この日は少しだけ市内観光をして翌日のレースに備えた。夕食は近所の定食屋さんでおとなしく済ませた。ちなみに、レース翌日の月曜日には首里城、泡盛工場、国際通り散策と充実した1日を送って6時45分発の羽田へ向かう便に乗った。
レース当日12月2日、天候は曇り、しかし気温は高く最高気温は27℃と予想されていた。朝食後アップを兼ねて会場付近まで走って行ったが、風が気持ち良く吹いているのが救いだった。しかし走って戻って来たら、大汗をかいてしまった。
ホテルから会場までは徒歩で15分ほど、すぐに走れる状態で出掛けた。会場の奥武山公園では既に整列が始まっていた。広場に荷物を置いて、自分たちの整列ブロック「Dブロック」に入った。整列にはなかなか厳しい様で、制限時間に遅れたランナーは最終ブロックの後ろからのスタートになってしまう様である。
30分ほど待たされてスタート地点への移動が始まった。私のゼッケンはDブロックの3459番、3000人以上は私の前にいる事になる。そんな行列がスタート地点の明治橋へと移動した。それだけの人数が橋の上に並んで大丈夫かと少し心配になってしまった。そんな事はよそにスタートのセレモニーが行われ、9時ちょうどにスタートの合図が鳴った。
昔のレースでは記録を出すために緊張した状態でスタートを待った事を覚えているが、今は記録に対する執着も無く、またコースや気象条件が厳しい事で記録も見込めない事で緊張感など無く、リラックスしてスタートを待っていた。少しずつ動き出したところで周りと一緒に走り出し、スタートラインを過ぎてからは前を目指して走り出した。
スタート前にはコースの予備知識などはほとんどなく、ただハーフ地点あたりまではずっと上り基調のコースだという事だけは頭に入れていた。最高到達地点はおよそ100m、鶴舞公園と同じくらいの標高になる。初めてのコースなので、地理的には全く分からない。ただ前のランナーに付いて行くだけ、先を行くランナーが頼りである。
評判どおり、沿道にはたくさんの応援が出ている。また補給食や水などの私設エイドがたくさん出ているという事も聞いていた。スタートして直後の国際通りでもステーキが提供されていた。スタートした直後にステーキでも無いだろうと思ったが、我が妻は手に取ったそうである。妻とは一緒にスタートしたためにまだ数には余裕があったのだろう。
国際通りを入った辺りではまだ地理的にどのあたりを走っているのか分かっていたが、国際通りを右折してからはもう分からなかった。ただ車で市内を走った様な所では少しだけ分かったが、それもほんの少し、あとはもう何も分からなかった。市内は小刻みなアップダウンが続いていた。
那覇市内を過ぎて隣の街へ入っても応援は続いていた。市街地を出てしまえば応援などいなくなるだろうとタカをくくっていたのだが、どこにも応援のひと達はいた。スタート前、整列の制限時間が近く、トイレに行っている時間が無かったので、どこでトイレに行こうかと考えていたのだが、なかなか都合の良い場所は見当たらなかった。結局15キロの手前にちょうど仮設トイレがあり、誰も並んでいなかったので、そこで用を足した。それほど尿意を催していたわけではないけれども、出し切るまでにはだいぶ時間が掛かってしまった。10キロ以降、まずまずのペースで走っていたが、ここで1分ほどロスタイムが生じた。そのロスタイムが無ければ、25キロあたりまではいいラップを刻んでいた。
走り出してから私設エイドがどこにでもあるという事が分かり、補給はどこでも貰える事が分かったので、混んでいるオフィシャルのエイドはほとんど必要が無かった。自分でジェルを8個持っていて、10キロか15キロあたりから5キロ毎に1個ずつ取っていく事にしていた。ジェルを取ったところですぐに水が貰えるわけでもないので、水が貰えそうなところでジェルを口にして、その後水やドリンクを飲むようにしていた。そのお陰でエネルギー切れに陥る事は無かった。
今までここ数年、マラソンで20キロを過ぎたあたりからふくらはぎがつってしまったり肉離れを起こす事が毎回の様にあった。今回のマラソンに向けて練習をしている時に、その要因は体が傾いているためではないかと気が付いた。それが10月の下旬だった。それ以降は走る時に左側に傾かない様に気を付け、また肩も左側が下がらない様にと注意した。それ以来左脚に違和感を覚える事も無くなり、練習も気持ち良く走れる様になった。
このレースでもそれだけには注意して走った。お陰で故障する事も無く、最後まで無事に走り切る事ができた。故障の連続で途中走らなかった期間もあるが、最後まで走り切ったのは2009年の大田原以来だった。以前よりだいぶ遅くなってしまったが、やはり最後まで走り切る方がマラソンは楽しいものだった。
15キロでトイレに行って以来再び快調に走れる様になった。20キロで坂を上り切り、その先の中間点、平和祈念公園では給水ボランティア、関門の要員、そしてたくさんの応援のひと達がいた。そんな中を気持ち良く走り抜けた。本当は5キロ毎のラップを25分台で走りたいところだったが、26分台が精々だった。こんなコンディションでは25分台で走るのは難しいことだった。
中間点を過ぎると今まで上ってきた分、下りに変わった。だいぶ楽になった。そして25キロを過ぎると左側には海が見えてきた。高い丘の上から海を見下ろす様ないい景色だった。しかしそんな景色に見とれてはいられなかった。ただ前を見てゴールを目指すしかなかった。
坂を下り切って30キロ、残りはほぼ平坦、再び市街地に入ってきた。50歳になるまでは、30キロは2時間を過ぎて5分以内ならフィニッシュで3時間を切れる目安だった。しかし今や2時間44分、既に3時間直前だった。それは15年も前の事だった。そんな事を考えながら30キロを過ぎて行った。
市街地には再びたくさんの応援とたくさんの私設エイドが現れた。そして走りに元気の無くなった私はとても元気付けられた。雲間が切れて日差しは肌を刺し、更に追い風のために風を感じられなくなり、走りはとても辛くなっていた。できればずっとイーブンペースで走りたいところだったが、かなりペースは落ちてしまっていた。自分でもそれは感じられた。
体感温度はかなり上がり、冷たい水を貰って体にかけた。トライアスロンのランの様だった。少しずつ上っていて、市内観光の時に何度か見た景色が現れた。上にはモノレールが走り、目の前にはリゾート風のマンション、それを過ぎれば残りは5キロほど。あとは残りの距離を考えながらのマラソンになってしまった。
40キロ、残りは2キロ。だいぶペースは落ちてしまい、ついにラップは30分を超えてしまった。あとは最後まで走り切れればよかった。4時間は切れそうだと分かったので、無理をする事はなかった。残り1キロで陸上競技場の近くまで来ていたので、残りももう少しだろうと思っていたが、公園の中をぐるぐるとまわされてなかなかゴールが見えてこなかった。それが最後に辛いところだった。
沖縄と言えば宮古島、宮古島のトライアスロンのフィニッシュも陸上競技場だった。今回も同じ様な陸上競技場だった。第2コーナーから入って約半周回ってフィニッシュゲートがあった。なかなかスピードは上がらなかったが、最後までしっかりと走る事ができた。皆さんのお陰だった。
(No.637)
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