第12回大田原マラソン
1999年11月23日(火・祝)
記録:3時間01分36秒
順位:総合128位/794人
| DIST. | | LAP | | SPLIT |
5Km | 20:34 | 20:34 |
10Km | 20:16 | 40:51 |
15Km | 20:36 | 1:01:27 |
20Km | 21:32 | 1:22:59 |
25Km | 20:47 | 1:43:46 |
30Km | 20:57 | 2:04:43 |
35Km | 22:21 | 2:27:05 |
40Km | 23:47 | 2:50:53 |
42.2Km | 10:42 | 3:01:36 |
11月22日月曜日、明日の大田原マラソンに備え休暇を取る。昼過ぎに大田原へ車で向かう。今晩は車中に泊まる予定。昨年、河口湖マラソンに代理で出場した時に経験しているので、特に問題は無かった。要領はわかっており、注意すべきこともわかっていた。夕方5時前に到着、まわりの下調べを充分にする。トイレの場所なども調べる。その後は近くの温泉に入り暖まる。食事をすませた後もう一度、時間つぶしのため、別の温泉に入りに行く。――大田原温泉――こちらは露天風呂も有り、まずまず。あとは朝食の買い物などして、寝る準備をする。11時過ぎには寝付いた。明日は6時に起床の予定。
23日、朝はそれほど寒くはなかった。ちょうど6時、目覚ましの鳴る前に起きる。トイレ、朝食、はみがきと済ませ少しずつレースの準備をする。スペシャルドリンクの用意もする。これで準備は完璧である。8時少し前から受付は始まっており、スペシャルドリンクも6ヶ所すべてに置く手配をする。あとは、体育館に荷物を運び込み、レースの準備をするだけ。途中、来ているはずの鉄人のメンバーを捜しに行くが見つからなかった。
スタート1時間前の9時40分頃からアップを始める。軽いジョグとストレッチ、体調は充分、何の問題も無さそうだ。天候も悪くなく、手袋も要らなそうだった。20分ほどアップをして戻る。アップの最中に鉄人のメンバーと出会う事ができた。着替えを済ませ、15分くらい前にスタート地点へ向かう。いつものマラソンとは異なり、寒さは心配する必要は無かった。手袋もしなかった。スタート位置も心配することなく、好きな位置に並ぶ事ができる。ただし前列は、陸連登録者と決まっていた。
10時40分、予定どおりスタート。風はほぼ無風。気温はどれほどか、寒さを感じることはなかった。スタート時のゆっくりペースを避けるため、意識してペースを上げる。グランドを1周と3分の1をまわって道路へ出ていく。1周400mは1分40秒、ちょうど良いペースと思った。この時点で既に、このまま行けば、問題なく3時間は切れると思った。今日の目標の2時間55分も問題なさそうに思えた。あとは、このままゴールを迎えるだけだと思っていた。
何度か角を曲がって周回コースへと出る。3キロあたりで既にだいぶ汗をかいていた。心配と言えばこのくらいだった。しかしこの時点では全く気にしていなかった。ほぼ4分ペースで走っているつもりでいた。スタート前にトライアスリート・宮塚を発見、その宮塚は、2キロあたりで私を抜いていった。
5キロの手前あたりで、後ろから中村が追いついて来る。私よりやや速いペース、すぐに前方に消えていった。5キロは、20分34秒。予定では20分そこそこのつもりだったので、やや遅いと思った。今シーズンの体調からすれば、どんどんペースを上げていっても問題ないと思っていたので、10キロまでにペースを上げることにした。予定では20分をキープし、15キロは1時間01分以内にしたかった。すれば、2時間55分を切ることも楽だろうと踏んだ。地理的には、このコースは、スタート地点がいちばん高く、10キロあたりがいちばん低くなっている。5~10キロあたりは下り、10~15キロは上っている。しかし一部、坂であると感じられるところがあるだけで、他では坂の実感はほとんど無い。
先行した中村は、50~100mくらい前方に見えている。10キロまでは余裕をもって走り、予定よりやや遅かったものの20分16秒でクリア、とりあえずペースは上がった。10キロ地点の先、交差点を右折したところに最初のスペシャルドリンク。まだ無くても良かったが、汗もかいているしカーボショッツは念のために取っていくことにした。特に問題は無かった。このあとスポンジテーブルが2.5キロおいて5キロごとに有る。暑いと感じることは無いものの、寒いとは感じず、更に汗もたくさんかいており、全てのテーブルで水、スポンジは取っていた。
10キロを過ぎ、だいぶ先にいた中村が少しずつ私に近づいてきていた。ペースが落ちてきているようだった。13キロあたりですぐ目の前まで中村は来ていた。ちょうどいいペースの集団があり、それに付いていくように声をかける。中村はきちんとそれについて行った。私もなるべく離されないように努めた。
学校のある15キロ地点までは、中村が20~30m先にいる状態がしばらく続く。その先やや下り坂のあたりで後ろからいいペースで、山口、滝川が追いついてきた。ずいぶんペースが違っていたので、半分でやめるつもりでいるのかと思った。二人はそのままのペースで、中村にも追いついた。その後は二人のペースも落ち着き、50mくらい前方を三人が走っているのを確認できていた。
私のペースが落ちたのはそのあと。20キロは21分32秒もかかってしまっていた。それまでいいペースで来ていたものが、ここでガクッとペースが落ちていた。中村のラップもここだけ落ちており、更に、一昨年の記録でも、このラップだけ悪いので、この間が少し長いのか、あるいは上り気味なのかと思う。しかし、この時はそんな事にも気づかず、ただ単にペースがガックリと落ちたものと思ってしまった。
中間点の表示は、1時間27分を30秒くらい過ぎていたか。この時点では、結局いつものタイムに落ち着きそうだと考え直した。まず3時間を切ることが第一目標であった。その後は、一時きつく感じられていた体も持ち直し、まずまずの調子で走れているように思えた。だいぶ離れたようだったが、鉄人の三人が走っているのも前方に見えていた。
25キロは、20分47秒と持ち直しまずまず。そしてやや下り気味のコースの続く30キロは、なんとか20分台で走れて、20分57秒。そしてマラソンのチェックポイントとなる30キロスプットは、サブスリーの条件にぎりぎりの、2時間04分43秒。とりあえずは、このタイムを見て、リミット内にあることだけは確認した。この後、急にペースダウンする事などは予想していなかった。なんとか3時間を切れそうだという気持ちしかなかった。希望が強すぎて、やや認識が甘かったのかもしれない。なんとか20分台で走っているので、このまま維持できるだろうというつもりでいた。
30キロ地点の先には、前回10キロのスペシャルのあったところで、30キロのスペシャルドリンク。カーボショッツに手間取りながらも全部食べる。前方にいた三人のうち、山口の姿が少しずつ大きくなってきていた。これは充分とらえることができそうだった。ということは、同じように他の二人も落ちてくるかもしれないと思った。しかし、その二人の姿は、なかなか見えてこなかった。
私の近くには、スタート直後から、『8111』が常にいた。時には前に、そして後方にと。時折ペースを上げて前へ出ていったりしていた。特徴ある走りで、すぐに気が付いた。トライアスロンでも見覚えのある走りで、尋ねるとやはりトライアスリートとの事だった。
再び巡ってきた学校の横のチェックポイント。今度は、35キロ地点。この辺りでは、すでに山口は捕らえていたような気もする。はっきり覚えていない。自分の走りだけで精一杯だった。ただ30キロでは残り12キロとなり、その後、ある程度は余裕を持って走っているつもりだった。35キロとなり残り7キロというのも、納得できた走りのつもりだった。タイムは22分21秒、トータル2時間27分05秒で、猶予は32分。で、4分半のペースでもセーフだと安心していた。ここで安心しきっていたことが敗因だろう。すでに4分半のペースに落ちてきていたが、それ以上落ちることは頭になかった。もう少し危機感を持つべきだった。
2キロほど行った残り5キロ地点では、はっきりタイムは覚えていない。ややきつそうかと思える時間になっていただろう。そして、そろそろ人家が増えてきたあたりまで来て、残り4キロ、2時間42分~43分のタイムであっただろうと思われる。農協、スイミングスクールを過ぎ、左折して広い道路に出ると、残りは3キロ。40キロ地点はまだかと時計と見比べるが、表示は見えてこない。
そして40キロ、ついに決断が下された。23分47秒、トータル2時間50分53秒、もはやこのタイムで3時間を切ることは、不可能に近かった。しかし、ひょっとしたらの気持ちもあり、諦めきれなかった。用意したスペシャルを取ることはしたが、カーボショッツは手を出さなかった。バームだけ飲み、あとは捨てた。すぐ次にあるゼネラルの水も取らずに先を急いだ。
残り2キロ地点は覚えていない。最後は左折して、国道461号に出る。反対車線では車が渋滞している中を懸命に走る。応援してくれている中、のんびりとは走っていられない。ラスト1キロの表示、ゴールの競技場への入り口もまだまだ先、時計は56分台を指していた。もはや、1キロを3分台で走ることは不可能、サブスリーは絶望的となった。
また3時間00分台だろうかと恨めしく思った。しかし前方を見るとちょうどランナーが途切れた。全てが私を応援しているようで、先頭を走っているような気持ちにもなった。ここだけはとてもいい気持ちだった。しかし3時間を切ることは不可能だし、競技場への道へ右折すると、再びつらい足どりに戻ってしまった。
まだ残りは、800mくらいありそうだった。やっとの思いで競技場へ入ると、まだ時計は2時間台を指していた。それだけが救いだった。競技場までは2時間台で戻って来られて嬉しかった。しかし、残りの一周は長かった。いくら応援があっても、それ以上頑張ることはできなかった。無駄だった。ゆっくり一歩ずつ足を前へ出すだけだった。ホームストレートに入ったとき、時計は3時間01分となり、ついに00分も超えてしまった。あとはもうどうでも良かった。フィニッシュラインの前でレースは終わっていた。ゴールタイムは、3時間01分36秒、なんとも情けないタイムとなってしまった。
【反省】
- 横浜マラソンの疲れがまだ残っていたか?
- 走り込みの疲れが完全に取れていなかったか?
- やはり走り込みの555キロは問題か?
⇒この距離は相性が悪そうだ。もう少し考えるべきだった。
- 気温が高すぎた。もう少し寒いくらいがフルマラソンには良いだろう。
⇒こんなに汗をぬぐったフルのレースは珍しい。トライアスロンのマラソンでしか無いかもしれない。
―――――
10月の走り込みの頃、今年はずいぶん暖かいと感じていた。
お陰で走り込みには楽だった。例年より2週間くらいは、ずれているような気候だった。
11月には例年通りに戻ってくれるだろうかと心配した。しかし予想通り、レースでも寒くなることはなかった。
―――――
やはり、一番のポイントは暑さだったか。ここに気がつかなかったのが敗因かもしれない。
泊まることで頭がいっぱいだったか。それもある。確かに、いろいろ気をつかわなければならなかった。
来年は宿を取って、落ち着いてレースに出ることにしよう。
―――――
おしまい
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